hidezumi氏のブログ「Keynote」のエントリ「意味がわからない」がスゴい件について

いつも、鋭い分析と興味深い結論、または、鋭い分析と残念な結論で読者を思索に耽らせてくれる思考実験ブログ(多分)「Keynote」だが、
今日、溜まっていた未読RSSを眺めていたところ、「意味がわからない」というエントリがあった。
意味がわからん (Keynotes)

自分に意味がわからないことを愚痴ったエントリだったら嫌だなぁ、そんなの読みたくないなぁ、と思いながらも、「でもそんな普通のエントリがこのブログにある訳もないよなぁ」ということで、最初5%ぐらいの期待だけを携えて本文を読んでみた。


なんと、これは、「意味がわからない」とコメントを寄せられた、という内容から始まるエントリであり、さらにそこから超展開(これはいつもの通り)でメタ心理分析が繰り広げられていた。だが、ここまでならまだ「展開スゲェ」で片付くことであり、驚くような話ではない(驚いていたら氏のブログは読めない)。


まず、導入部分の最後、

多分、投稿者の「わからない」にはいくつかの意味合いがあるのではないか。わざわざ「匿名」と書いて投稿されているので、これ以上の情報を得る事はできないのだが。

  • 読み進めてきたものの、地図が作られなかった。
  • 読み進めてきたものの、最終成果物が何なのかわからなかった。
  • 作者がなぜこんなことを考えているのか理由がわからない。

非常に冷静な自サイト分析・・・。これだけでも尊敬の対象にするに値するのだが、とりあえずそれは置いておくとして。(だけど、この特性を承知で公開してるhidezumi氏がドSであることは確定的に明らか。)


ここから、この「わからない」を人がどう処理するか、ということを含めて考察が始まる。


若干の前振り(GUIとコマンドラインという例え+α)をしてから、

もうひとつ「わかりやすい」の質がある。それはアタマの使い方の質の問題だ。抽象的なルールをわかりやすいという人(直感型)と、具体的な行為や光景がわかりやすい(感覚型)の人がいるのだ。

とある通り、ここでターゲットを「抽象的なルールをわかりやすいという人」と「具体的な行為や光景がわかりやすいという人」に分類している。可能性の問題を言うなら、ほかにも「「わかりやすい」の質」のパターンはあってもよいとは思うけれども、この大別は概ね市民権を得ていると思うので良いと思う。
実際、後者に属する人の割合は圧倒的だ。一般的に論争になりがちなのが、この2パターンの対立であることは確定t(以下略)。それゆえに、極めて多くのWebSiteにおいて、この対立についての話がとりあげられている。
しかし、この対立のやっかいなところは、前者が後者の存在を一応認識しているのに、後者は前者の存在を正確に認識しておらず(その性質についての理解が殆ど無いため別グループとすら思っていない)、しかも後者が数の上で圧倒的であることだ。ゆえに、圧倒的多数である後者に属する人は、対立軸を正確に理解していないことが多い。


その後、

日本の週刊誌は感覚的な人たちが「わかる」と言えるようにできている。だから、ほとんどの記事は次のように書かれている。「吉田茂の孫である麻生さんと、鳩山一郎の孫である鳩山由紀夫が争っているのが今の政治抗争の本質である。思えば、バカヤロー解散の時には…」

と、その性質が与える影響について書いてある。これがまた非常に頷かされる文章である。あとは読んでみれば良いと思う。ただ、「この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。」は、「この二つの「わかりやすさ」が状況を悪化させることもある。」の間違いだろう。


それで、このエントリの何がすごいのかということだが、僕は、

  • ドラッグアンドドロップの例をもって、抽象化ルールによるわかりやすさとは何かということを(おそらく後者に属する人でも)分かりやすく語っていること
  • その害についてしっかり書いてあること

の2点について主にすごいと思った。こういうエントリを多くの人が読んでくれるようなことがあれば、状況は改善するに違いない。だけど「訳がわからない」とかコメント送られるブログだから、それは望みづらいことなのかもしれない。